マンスリー・レポート No.68 (2006年8月)
活動会員のレポート
  国連WFP協会を退職して
  元 国際連合世界食糧計画WFP協会
シニアマネージャー
新田にった 充成みつなり(元 三井物産)
(注1)世界の貧困と飢餓救済を目的とする国連の機関。年間支援額約30億米ドル、職員1万人の国連最大の人道支援機関。現在世界80ヵ国で、8億5,000万人の人たちに対する食糧供給と関連インフラの整備を行っている。学校給食が目玉プロジェクトの一つで、およそ1億7,000万人の子供たちを援助している。WFP協会はこれを支援する日本のNPO法人。

 私は2006年4月末をもって国際連合世界食糧計画WFP協会を退職した。協会には2003年1月、ABICの募集案内を見て職員(シニアマネージャー)として採用された(この時のことは、マンスリー・レポートNo.32〈2003年7・8月〉に寄稿)。当初は、国連機関WFP日本事務所(注1)がNPO法人WFP協会を運営しており、私は協会第一号の職員で、他にアルバイトの庶務会計担当と日本事務所からの出向者のみという布陣であった。

 まず協会の基礎作り、事務局体制と法制度を整備することが喫緊の課題であり、最初の2年間はこれに明け暮れた。無論、ファンドレージングと広報も本来の重要な役割であったが、ご寄付頂いた現金募金を夜中までコインカウンターで数えるところから始まる、といった状況下、3人体制ですべてを満足に遂行することは至難の技であった。

丹羽会長(前列中央)を囲んで
蟹江専務理事(丹羽会長の左側)、筆者(右端)
(2005年7月1日 理事会終了後に撮影)

 2005年になり、丹羽宇一郎伊藤忠商事会長が協会会長に、同じく蟹江雅彦氏(元ハインツジャパン社長)が常勤で専務理事に就任され、事務局要員も10名を数え、ようやく総務経理、企画、事業の機能分化ができて、質量両面で広く深く活動を展開する基礎体制が整ってきた。

 また、協会を支える上場企業を主体とした評議員と顧問制度を確立し、さらに協会活動の全国展開を目指す支部制度を設け、その第一号として、協会発祥の地横浜に支部を設置した(横浜市の国連機関誘致により1996年に日本事務所が、2001年に協会が開設された)。

 特筆すべきは、評議員・顧問はじめ外部協力者とのコンタクト・ポイントおよびファンドレーザーの役割を担う「エキスペリエンツ・ボランティア」(注2)を20名採用し、大変貢献していただいているが、このうち多くがABIC経由でご参加いただいた方々である。

(注2)堺屋太一氏が、団塊の世代の活躍をテーマに書いた小説『エキスペリエンツセブン』から命名。人生の経験者・熟達者、の意。

 ここに至り、気がつくと疲労感をずっしりと肩背に感じ、3年4ヵ月の期間が私にとって非常にコンパクトな謂わば“ネズミの時間”として実感された。

 協会と関係者の皆さんには十分な寄与貢献もできずに忸怩たる思いが深いまま、ここで私の人生第二クールをひとまず終えさせていただき、自らをオーバーホールして、いずれまた次なるクールを目指したいと考え、退職した。

 末筆ですが、在任中大変ご支援いただいた関係者の皆様方に厚く御礼申し上げます。

(マンスリー・レポートNo.68〈2006年8月〉掲載のEV体験記ご参照)

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